日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)の30年間を振り返ったうえで、これから何を目指すか。室山哲也会長をはじめJASTJの活動の先頭に立つ理事や監事のみなさんに寄稿いただきました。
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AI・SNS時代だからこそ大切な「自分で考えること」 (内城喜貴)
これまでの30年、これからの30年――激変する世界 (森時彦)
31年目の出発
“情報の海”照らす灯台へ
会長 室山哲也
JASTJが発足した1994年とはどんな年だったのだろうか?新聞5社の総発行部数は、現在の2倍の約2700万部、テレビは画質の悪いアナログ放送で、やっと8年後にデジタル化することになっていた。しかし、市民は多くの情報をこれらの巨大メディアに頼る時代でもあった。
激変するメディア環境
あれから30年。メディア界は激変した。インターネットの普及でメディアは多様化し、国境を越えてだれでも自由に情報を入手し、だれでも発信者になることが出来る。今や若者は、新聞をほとんど読まず、代わりにスマホを使って、手軽にSNSの情報を入手している。動画情報もユーチューブやネットフリックスが全盛で、テレビの存在感は次第に薄まりつつある。
このような時代において、JASTJは今後、どのような存在であればいいのだろうか?メディアだけでなく、社会全体も大きく変化した。気候変動、感染症、格差や戦争など、世界的課題が拡大する中、日本では少子高齢化、地震災害や洪水、原発事故など社会的リスクがますます深刻化している。
このように課題が絡み合った複雑な社会では、インターネットによる情報は非常に有効だが、一方で、野放図な使い方によって、玉石混交の情報が氾濫し、何が真実かを見分けにくくなるという「負の側面」も出てきた。特に生成AIの出現で、フェイク情報が激増し、市民の不安がかきたてられ、ある種の社会的混乱が生じている。
高まるJASTJの役割
これからの時代の、健全なメディアとは、どういうものなのだろうか?私は、JASTJの存在意義が、ますます大きくなるのではないかと思っている

理由の一つは、JASTJには、新聞、放送などの、いわゆる「オールドメディア」出身のジャーナリストが一定数存在していることだ。オールドメデイアというと、なんだか古臭いイメージを持つ人もいると思うが、常に情報の裏を取り、真偽を見極めて、情報を発信するプロフェッショナルの集合体だ。「信頼できる情報」こそ、ジャーナリズムの生命線であり、魑魅魍魎の情報の海を航海する旗印なのだ。そしてその経験は、JASTJを支える大きな屋台骨であり、文化として定着している。
二つ目の理由は、JASTJには「科学的視点」を持つ会員が多いということだ。サイエンスの最先端を取材してきたジャーナリストの他に、著名な科学者や研究者が在籍している。情報が断片化し、短絡的な情報や、時として「似非科学」が跋扈する現代社会において、科学的視点こそ、物事の本質を見極める重要な武器となる。また、JASTJは、J塾などを通じて、科学的コミュニケーションの方法論を共に学び、社会に発信する活動も続けている。
三つ目は、教育者、経営者、行政官、企業の広報、ウェブプロデューサー、法律家、学生など、実に多彩な会員がいることだ。様々な文化的背景を持つ会員が議論することで、化学反応が起き、従来の組織ジャーナリズムの範疇を超えた、しなやかな「科学コミュニケーション」の場がつくれる仕組みになっている。
今後、JASTJは、新しい時代を切り開く集合体として、進化していくことが出来るだろうか?JASTJが提供する情報は、いつも信頼できる、混迷した情報の海の中の「灯台」のような存在だといわれるようになりたい。私は、最近そのように思うことが、多くなってきた。

JASTJと科学ジャーナリストの国際連帯
副会長 高橋真理子
第1回科学ジャーナリスト世界会議が東京で開かれたのは1992年だった。「インターネット元年」と呼ばれる1995年より前である。もっとも、1995年がこう呼ばれるのはインターネット普及の契機となったWindows95が発売されたからで、ネットの利用はその前から始まっていた。パソコン通信という前史を経て1992年には商用インターネットサービスプロバイダー会社「IIJ(Internet Initiative Japan)」が日本で誕生している。だから、1992年を「日本のインターネット零年」と呼んでもいいのかもしれない。
初の世界会議を「日本を挙げて」開催
いずれにせよ、なぜこの時期に東京で世界会議がもたれたのだろう? 当時はさっぱりわからなかったが、言い出しっぺはフランスのベテラン科学ジャーナリストで、パリに本部があるユネスコ(国際連合教育科学文化機関)に話を持ち掛けたのが始まりだったようだ。ユネスコは「国民の教育、科学、文化の協力と交流を通じて、国際平和と人類の福祉の促進を目指す」という理念に一致すると受け止めたのだろう。実現に向けて動き始めた。欧米偏重とならない「真の世界会議」とするためにアジアで開くべきだと考えたのは自然なことで、そうであれば東京が選ばれたのも頷ける。ユネスコから文部省(当時は中央省庁再編の前である)に話が来て、日本側はおそらく「聞いたことのない話」に驚いたと思うが、受け入れた。
こうして、新聞テレビ各社の科学記者や科学技術関係の著作のある作家や研究者が集められ、「組織委員会」ができた。そのメンバーの中から「実行委員会」も組織された。1979年に朝日新聞社に入り、1986年から「科学朝日」編集部で働いていた私はまだ三十代。先輩がたに誘われて、思いがけず最若手の組織委員・実行委員になった。国際会議の運営方法なぞ、皆目わからなかった。おそらく委員のほとんどが同じだったと思うが、事務局を担った電通が支えてくれた。
「後援」に名を連ねたのは、日本学術会議、外務省、郵政省、文部省、科学技術庁、環境庁、日本ユネスコ国内委員会、国連大学、社団法人日本新聞協会、社団法人日本雑誌協会、社団法人日本民間放送連盟、日本放送協会である。協賛には企業や社団法人など47団体が並んだ。「日本を挙げてのバックアップ態勢」だったといえる。
1992年といえば、ブラジルのリオデジャネイロで地球サミット(環境と開発に関する国際会議)が開かれた年でもある。約180か国から1万人に及ぶ政府代表団が参加し、NGO関係者らは約2万4000人も集まった。6月に開かれたこの会議で、地球環境問題に対する関心が世界的に高まり、地球の未来のために1人ひとりが考え方と行動を変えていかなければという認識が広がった。となれば、「環境や科学技術について伝えるジャーナリストがもっと活躍してほしい」「科学ジャーナリストたちが国際的に連帯することも重要だ」と考える人が増えても不思議ではない。
こうしてみると、第1回科学ジャーナリスト世界会議はまさに時宜を得た開催だったのだ。渦中にいた私がそれに気づかなかっただけで・・・。
日本科学技術ジャーナリスト会議の誕生
11月に東京に集まったのは、31か国から165人だった。今思えば、こじんまりした会議である。そこから日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)が生まれた。会報第1号(1994年12月発行)の巻頭言に、初代会長を務めた岸田純之助氏(元朝日新聞論説主幹)が以下のように書いている。
◇◇◇
「日本科学技術ジャーナリスト会議」の役割は、次の三つに集約される、と私は考えている。
第一は世界各国の同じ分野で活躍するジャーナリストとのつながり、情報交流をもっと密接なものにすることである。
1992年11月に開催された「第1回科学ジャーナリスト世界会議」の準備段階、また実際の会議の中で、日本の参加者が強い印象を受けたことの一つは、欧米をはじめ世界の各地域に科学ジャーナリストの組織が存在している、という事実であった。主催国の日本では臨時編成の組織である点にたえず歯がゆさを感じた実行委員会の人々が、日本にもこうした窓口を作る作業に直ちに取りかかったのは、当然だった。
第二は、ともすれば孤立し勝ちな、新聞・放送・出版などの企業に属する科学技術ジャーナリストに、組織を超えた交流の枠組みを作る必要がある、ということである。
(中略)
第三に、この新組織が行政組織や会社などの情報源とは少し異なる角度からニュースを眺め分析する、いわばテクノロジー・アセスメントの機能を持つ集団に育って欲しい。
◇◇◇
1994年7月1日に設立総会を開いたJASTJに対し、米国科学記者協会(NASW)会長と英国科学記者協会(ABSW)議長からお祝いのメッセージが届いた。まさにJASTJは科学ジャーナリストの国際連帯のもとで生まれたのである。
第2回の世界会議は1999年、ハンガリー・ブダペストでユネスコが国際科学会議(ICSU、現在は国際社会科学評議会=ISSC=と合体して国際学術会議=ISC=となっている)と共催した「世界科学会議」のあとに開かれた。このときはインターネットをめぐる議論が噴出し、「ブダペスト宣言」には「インターネットにおける英語以外の言語による情報流通を増やす」「インターネットでの情報は、常に質、正確さ、客観性などをモニターする」という2項目が入った。こうした宣言に果たしてどれだけの効力があるのかとシニカルに構えたくなる向きもあるだろう。だが、全8項目の宣言の中に「科学ジャーナリストの世界連盟の設立」という文言が盛り込まれたことで、連盟設立に向けた動きが具体化する。
世界連盟の発足に日本が絶妙のアシスト
そこで絶妙のアシスト役を果たしたのが日本だった。東京・台場に日本科学未来館が開館したタイミングで2001年10月にJASTJと科学技術振興事業団(JST、現在の科学技術振興機構)が「国際科学技術ジャーナリスト会議(東京2001)」を共催し、そこで連盟設立を目指す人たちの協議の場を作ったのである。当時のJASTJ会長の牧野賢治氏(元毎日新聞編集委員)は、JASTJができる前から各種の国際会議に積極的に参加し、世界の科学ジャーナリストたちとつながりを持っていた。海外からこの場に来たのは数人だったが、第3回世界会議が翌年11月にブラジルで開かれることがすでに決まっており、それまでにスイスの科学ジャーナリストが連盟の憲章草案をつくることや電子メールで意見を集めることが合意された。これで準備が加速したのは間違いない。
ブラジルでは、本会議の開始前に憲章起草委員会が開かれた。日本を含む10か国ほどの代表が集まり、一言一句議論しながら連盟の理念やルールを作り上げていった。それが、国で言えば「憲法」にあたる「憲章」である。牧野氏に引っ張っていかれる格好で委員会に参加した私は、「英語がネイティブではない人たちの受け止め方」まで考慮して一つひとつの言葉を選んでいく丹念さに驚き、感銘を受けるばかりだった。「こうして歴史が作られるのか」と興奮を覚えたことも告白する。

完成した憲章はブラジル世界会議最終日に採択され、加盟を宣言した団体が7つ以上になったところで連盟が発足した(そのように憲章に書かれていたわけだ)。真っ先に加盟を宣言したのは中国科学ジャーナリズム協会で、日本からはJASTJと日本医学ジャーナリスト協会(MEJAJ)の2団体が加盟した。そして2004年にカナダ・モントリオールで開かれた第4回世界会議の場で世界科学ジャーナリスト連盟の第1回総会が開かれたのだった。
世界連盟ができてからは、2年に1度のペースで世界会議が開かれるようになった。オリンピックの開催地決定と同じように、開催したいと名乗りを挙げた団体が招致演説をし、その中から一つを連盟理事会が選んだ。カナダの次はオーストラリア・メルボルン(2007)で、英国・ロンドン(2009)、カタール・ドーハ(2011)、フィンランド・ヘルシンキ(2013)、韓国・ソウル(2015)、米国・サンフランシスコ(2017)、スイス・ローザンヌ(2019)、コロンビア・メデジン(2023)と回を重ねた。
2013年にはJASTJと世界連盟が協力し、笹川平和財団とカナダのIDRC(政府の国際援助団体)の資金援助を得てアジアの科学ジャーナリスト養成プログラム「SjCOOP Asia(スクープアジア)」を実施した。日本への研修旅行や韓国・ソウル大会でのデータジャーナリズム研修など多様な行事が2015年まで続いた。
草の根協力でできた国際連帯を大事にしたい
世界連盟の活動が活発化する一方で、真っ先に加盟した中国はメルボルン大会を最後に世界会議に参加しなくなった。韓国は世界会議招致に力を注ぎソウル大会を全力で成功させたが、その後は熱が冷めてきたようで、コロンビア大会には誰も来なかった。
自国語で記事を書くのを仕事としているジャーナリストが国際活動に関心を持ちにくい、あるいは関心を持っても参画する時間がとれない、という状況はよくわかる。JASTJも同様の課題を抱えているが、それでも世界会議には毎回、代表を送ってきた。一つにはJASTJは科学ジャーナリストの国際連帯のもとで生まれたという恩義を感じるからで、さらには世界連盟設立に少なからぬ貢献をしたという自負もあるからだ。この歴史を、JASTJ会員はぜひ心にとめてほしい。
2025年現在、世界情勢は混迷の度を増すばかりだ。あらゆる国際協力活動が困難に直面している。世界科学ジャーナリスト連盟も例外ではない。それでも、草の根協力で作り上げたこの組織を大事にしたいと思う科学ジャーナリストは世界中にいる。そのネットワークのなかで、JASTJが重要な結節点としてこれからも着実に役割を果たしていくことを願っている。
科学ジャーナリスト賞の20年を振り返って
理事 事務局長 滝 順一
科学ジャーナリスト賞(J賞)は2005年に創設され2006年に第1回の受賞者が決まった。2025年には20回目の受賞者が決まる。これまで19回の選考の結果、書籍35作品、新聞記事19作品、雑誌記事3作品、映像16作品(写真を含む)、ウエブ5作品(特別賞含む)、展示4作品(特別賞含む)の合計81作品(*)を大賞または優秀賞として顕彰してきた。最終選考には著名な科学者・研究者の方々に携わっていただいてきた。
以下にお名前をあげて改めて感謝を申し上げたい(五十音順、敬称略)。
相澤益男(2011〜現在)、浅島誠(2011〜現在)、大隅典子(2020〜現在)、北沢宏一(2006〜2010)、黒川清(2006〜2010)、小林傳司(2024〜現在)、白川英樹(2006〜現在)、村上陽一郎(2006〜2023)、米沢冨美子(2006〜2019)。
JASTJ側の選考委員も交代してきた。選考委員長は創設から2019年まで柴田鉄治が担い、2020年から元村有希子が現在まで務めている。
(編集部注:本原稿は2025年3月に執筆)
一次選考は会員誰でも参加型
J賞には他の賞にない特徴がある。JASTJ会員らが候補作を推薦できるだけでなく、選考にも参加し一次選考通過作を選定する。一次選考は「誰でも参加型」としている。その後、有識者5人とJASTJ理事5人からなる最終選考委員会が受賞作を選ぶ。ジャーナリストや科学コミュニケーターらと科学者・研究者の双方の異なる視点から受賞作を選んできた。価値観・考え方の違いから最終選考は意見がしばしば対立する。どこで一致点を見出すか、選考委員長の差配が重要になる。
また受賞対象を書籍や新聞記事、テレビ番組だけでなく、ウエブコンテンツや科学館などの展示にも広げている。展示作品は、開催時期が限られていたり開催場所が遠方であったりして推薦を受けてもなかなか満足な評価ができないのが毎年の悩みの種である。展示パンフレットだけでなく会場の映像なども提供していただき選考に役立てている。これまで福井県立年縞博物館や金沢工業大学の自然科学書稀覯本コレクションなど意義深い展示を顕彰することができた。
推薦・評価に協力していただいたJASTJ会員や、J賞の趣旨に賛同し応募してくださった多くの人々の力の蓄積で徐々にJ賞の知名度も向上してきた。
新聞記事では、在京大手新聞社だけではなく、地方紙の独自の持ち味を備えた連載をいくつも顕彰できた。映像作品ではNHKの受賞が多く、民放作品が相対的に少ないのが残念ではあるが、民放局からは毎年意欲的な作品の応募がある。
持続・発展へ課題も
一方で、20周年を超えてJ賞を持続・発展させていく上での課題もある。初代選考委員長である柴田鉄治さんは、賞の発足を知らせる記事(会報35号、2005年6月)に「賞が成功するかどうかは、科学ジャーナリズムでいい仕事が生まれるかどうか、いい仕事をした人を探しだせるかどうかにかかっている」と書いている。また「事務局を手伝ってくれる人いませんか」と呼びかけている。
筆者がJ賞の事務局を手伝うようになったのは2010年頃からだが、賞の持続性と公正さの確保に常に懸念を抱いてきた。毎年60〜70作品の推薦があるが、推薦や評価を積極的にいただける熱心な会員の数は多くない。一次選考に向けた評価では、数人の方から10〜20作品の評価をいただくが、多くの評価者は1〜5作品にとどまる。
難しい相対評価
選考は基本的に相対評価である。候補作の書籍やテレビ番組などを見比べて最終選考に残す作品を選ぶ。筆者は事務局として毎年ほぼすべての作品に目を通してきたが、早い段階で接した候補作を高く評価した後、次々と集まる候補作に順次目を通しているうちに後の方の作品により良いと思われるものと遭遇し、過去の評価を見直したくなる。
相対評価を公正に行うなら、一次選考に関わるすべての評価者がすべての作品に目を通し優劣を総合的に判断するのが望ましい。しかしそれは一次選考段階では現実的ではない(最終選考では一次選考通過作全部を選考委員全員に目を通してもらっている)。
ひとつの作品に接して「これは素晴らしい」と推薦・評価をいただくのはありがたいことであるし一次選考の重要な判断要素にもなる。しかしそれは他の作品との比較の上での評価にはなっていない。そこで慣例として、1作品は少なくとも3人以上から評価(推薦者の評価は除く)をいただき、多様な視点から相対的に比較できるよう心がけてきた。
ただ60〜70作品でそれぞれ評価3つ以上となると200を超える評価をいただかなくてはならない。このため毎年、一次選考の終盤に、評価3つに未達の候補作について、事務局から協力していただけそうな理事・会員にお願いして、時には無理を言って評価を集めるのが恒例となってしまっていた。これは事務局として大きな負担であるし、何よりボランティア精神を基本に運営しているJ賞選考プロセスとして望ましくない。
一次選考方式の見直しも
そこで2024年から一次選考の方式を少し変えた。一次評価に携わるメンバーを固定(24年は10人)し、7月の募集開始後、2か月に1度くらいの頻度で会合(J賞委員会)を開き、推薦と評価の意見交換を行った。ひとりが何十もの作品に目を通すのは難しいが、意見交換を通じ見ていない作品の内容などについておおよそのイメージをつかむことができるし、他のメンバーの評価を聞いて自ら目を通したいと促されたりもする。それによってひとつひとつの候補作に対し、より多様な判断が入ると考えたからだ。
このやり方はそれなりの効果をあげたように思えた。ただ、思わぬ「落とし穴」があった。1月末の応募締め切り直前に推薦が集中する傾向はこれまでもあったが、2024年選考では新聞と映像作品の推薦が雪崩のように次々と舞い込み、結果的にJ賞委員会のメンバーにかなり無理を言って評価をいただくことになってしまった。これは推薦の集中を甘くみていた事務局の失態だといえる。
J賞はまだまだ進化をしなければいけない。2025年選考からは募集締め切りを1か月早め、一次選考までに時間的な余裕を取りたいと考えている。またボランティアとして評価に常時参加するJ賞委員会のメンバーを会員からより広く募りたいと考えている。
(2024年選考では過去の評価実績から協力をいただけそうな方に事務局から声をかけた)
科学の本を読むのが好きな人、新聞やテレビ、ウエブなどを通じ科学と社会をめぐる動向に目を光らせている人の参加を期待している。

受賞者と選考委員のみなさん
なお2025年の創設20周年を記念して、高校生に過去の受賞作を読んでもらう「高校生作文コンクール」と、受賞作を集めたフックフェアを開催(4月、ジュンク堂池袋本店)する。この2つの記念イベントもJ賞委員会での議論から生まれたことを記しておく。
注1) 第1回は必ずしも単一の記事や著作に紐付けて受賞者を選んでいない。総数を数えるにあたって、単一の記事(連載記事含む)や著作が対象になったとみなしてカウントしました。
注2) 文中の最終選考委員名は本原稿執筆時の2025年3月現在のもので、その後一部委員に変更がありました。
科学ジャーナリスト賞への願い
「ノッタカタ」宣言
理事 中道 徹
ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つのである。要するに、知恵には、それに先行する昼の時間、つまり歴史が必要だ。偉大なニュートンさえ、「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです」と言っている。つまり、歴史がなければ、向こう側(未来)は見えない。
J賞の受賞作を並べると、科学ジャーナリズムはおろか、科学技術の20年史が分かる。これは、JASTJの貴重な財産である。別の言い方をすれば、ノッタカタである。ノッタカタというのは、外来語ではなく、「乗った肩」のことである。そう、かなたを見渡すのに必要な「肩」のことである。
この財産を活かさないのはもったいない。では、どう活用したらよかろうか。
1)いつでも受賞作を読める科学の本棚を作る。
2)受賞作を販売するブックフェアを開催する。
3)受賞作を読んだ若者の感想文コンクールを行う。
ノッタカタの活用方法は、色々である。
話は逸れるが、未来に対する私のささやかな願いは、その「肩」に乗った若者たちの時代に、安全で自由な歩きスマホの技術が開発されていることだ。AIとかエネルギーとか宇宙とか、たいそうなものは私には判らないが、かつてウォークマンによって音楽が戸外に出たように、(変な乗り物を使う高額のものでなく)人が歩道を歩きながら、廉価に昭和の名作映画を観ることができる技術が実現しないかなぁと、願うのである。

AI・SNS時代だからこそ大切な「自分で考えること」
-情報の真偽見極めにリテラシー教育を-
副会長 内城喜貴
「私たちの行動ってかなりの部分は入ってくる情報に左右されるよね。情報が間違っていると行動も間違いかねないよね」。
もう10年以上も前のことだ。ある大学の1年生を対象にした「メディア基本講座」の出だしでこんな小学生にでも言い聞かせるような話をした。大学で専攻した社会心理学の浅知恵ではあったが、米国の心理学者フェスティンガーが提唱した「認知的不協和理論」、つまり誤った情報に基づいて行動するとその後正しい情報を聞いても心の中の「不協和」が生じ、誤情報を否認したり、自分の行動を正当化するとの理論を説明したのだ。
あのころから10年余りが過ぎて私たちの情報環境は激変した。ネット社会が一層進行し、AI技術も進歩した。ここ数年生成AIが登場、普及し、ネット上の情報、特にSNS情報に重きを置いて物事を判断する人、特に若い人が増えたと言われる。新聞やテレビのニュースなどは「オールドメディア」と言われ、「手間暇かけた」情報でも今や評価は必ずしも高くない。生成AIによる偽情報や偽動画の問題は大きな国際問題になっているが大国の大統領自ら真偽怪しい情報を発信している。正しい情報を伝えることを生業としてきた者として強い危機感を抱いている。
アルゴリズムの危険性
先日世界的なベストセラーになった「サピエンス全史」の著者で知られるイスラエルの歴史学者・哲学者のハラリ氏の講演を聞いた。同氏はSNSに頼りすぎるとアルゴリズム(処理手順)によって行動が影響を受け、アルゴリズムによって意図的に偽情報が拡散される危険性を強調していた。
欧州中世末期の「魔女狩り」や関東大震災でのデマの例など古来、「偽情報」の危うさを示す例は数多い。この日本社会でも昨今、偽情報が拡散されることで誤解や偏見が助長され、時に無防備な人に対する誹謗中傷という暴力にもつながっている。全くの嘘であっても衝撃的な内容は人々の感情に訴えやすく拡散されるからたちが悪い。
もちろん対策は世界中で模索されている。政府レベルの枠組みもあり、欧州が先導する法規制やプラットフォーム企業に対する規制などがあるが、国を問わず最も大切なのは情報の真偽を見極めるリテラシー教育の強化だろう。フィンランドではリテラシ-教育が幼少期から行われている。一方日本はどうだろう。ファクトチェックの授業を行う大学や新聞記事とSNS情報を比較する高校の授業例などはあるが、まだまだ「普及している」とは言えない。
「考えること」が他者への共感に
リテラシーの問題はネット社会、AI社会が一層進むとみられるこれからの若い世代、子ども世代に最も重要なのだが、われわれ大人が果たすべき責任も大きいはずだ。昔から知っている友人に真面目に「陰謀論」を展開されることが何度かあった。正直、がっかりしたのだが、大人世代にも影響する偽情報の問題は看過できない。「疑ってかかれ」とはネガティブなことばだが、まず現代の玉石混合の情報過多の時代、残念なながらそうせざるを得ない。
最近TBSテレビで放送されたドラマ日曜劇場「御上先生」には考えさせられた。詳細を説明する字数はないが、優等生が多い進学校の生徒に御上先生は「自分で考えて」と繰り返す。まず自身と向き合い、単に事実を分析するだけでなく他者の立場や気持ちを想像し、共感することの大切さを説いたのだ。やがてその言葉の意味を理解した生徒の成長が頼もしかった。
これまでの30年、これからの30年—激変する世界
理事 森 時彦
JASTJの創設30周年ということで、これまでの30年を振り返り、これからの30年について考えてみたい。
世界と逆行した日本
まず、この30年は、不動産・金融バブルが崩壊し「失われた30年」と言われる時代にほぼ一致する「特異な時代」だったと捉えたい。停滞し、デフレに苦しむ時代だった。未来への投資は激減し、成長のない時代。企業は余剰人員に苦しみ、その結果、間接部門・サービス産業の生産性は低迷した。科学技術や教育への投資も絞られ続け、日本の大学の世界ランキングも凋落を続けた。
一方世界では、アメリカ企業を軸にしたグローバル化が大いに進んだ。その最大の受益国は中国。30年前、中国のGDPは近畿地方のそれより小さかったと思うが、いまや日本の4倍を超える(米ドルベース)。マグニフィセント7に代表されるアメリカの巨大ハイテク企業は、ほぼすべてがこの時期に生まれ、社会のあり方を大きく変えている。
発展する一方で、アメリカでは経済合理性を追求するあまり所得格差、資産格差が拡大し、分断の種をまいてきた。日本は、雇用を守ろうと喘いだために取り残されたが、所得格差の拡大は諸外国に比べると軽微で済み、資産格差は先進国の中でも最も低いレベルを維持した。欧米中と比較すると目立った社会的分断も起きていない。
人口減少時代に入り潮流は大きく変わる
しかし今、その潮流は大きく変わりつつある。団塊の世代がリタイアし、少子高齢化が加速している。人余りから一転して人手不足の時代になった。過去30年は雇用維持のために生産性を犠牲にしてきたが、これからは徹底して合理性を追求しないといけない時代になってきた。
70歳以上の経営者が経営する中小企業は現在250万社ほどあるが、その半数は後継者がいないといわれている。金利が上がっていく中で利息を払えない企業、人手不足で上昇する賃金を吸収できない企業も、これから退場を迫られる。これらによって100万社ほどがM&Aなどによって淘汰されていくと予測される。
その一方で、AIやロボティックス、センサーやIoTによって減少する労働力を補う可能性も高まっている。生産性は高まり、一人当たりGDPは伸びる。AIはそれだけでなく、あらゆる研究開発に応用され、科学技術の発展を加速するだろう。
タブー視された議論をオープンに
欧州と日本では、軍事費が倍増する。この増大する防衛予算を、日本でも研究開発に活用しようという気運が高まっていくのではないか。もし頑なにそうしないなら、このお金の大半はアメリカからの武器購入に充てられる。購入する武器は、それ以外に使い道がないが、研究開発に使えば、デュアルユースだから民需用途へも展開される。産業育成になり、教育にも恩恵を与えるだろう。実際、米中では、研究開発費の大きな割合を防衛予算が担ってきた。
AIの利用拡大は、日本のエネルギー政策の見直しも迫っている。節約志向・配分の工夫だけではやっていけない新しい状況の中で、2025年2月に閣議決定されたエネルギー基本計画で、原子力発電所の再稼働や風力発電などの再生可能エネルギーの大幅な拡充が欠かせないと謳った。
このように見てくると、日本にとって過去30年は停滞の時代だったが、これからの30年は変化と発展の機会に溢れた時代になるだろう。そこでは、これまでタブー視されていた論点についても、オープンでファクトベースの議論が求められる。JASTJのような活動の重要性と社会的責任が増す時代になっていくのではないだろうか。
内外激変社会へ さらなるJASTJの活躍を
監事 佐藤征夫
2024年7月1日にJASTJは創立30周年記念式典を祝い、JASTJの歴史に一区切りがついたと言えるが、JASTJを取り巻く状況は、科学技術面だけでなく政治・経済、国際関係まで、単なる一区切りと言えないほど大きく変化を遂げつつある。
1992年に日本で開催された第1回科学ジャーナリスト世界会議は、国連機関や国、民間企業の協賛を得て成功裡に終えた。そのときの記者同士のつながりが生かされ、1994年に設立されたのがJASTJだという。この時も科学ジャーナリストを取り巻く状況はそれ以前とは幾つかの点で大きく変化しつつあった。この大きな社会変化の30年を概観しつつ今後のJASTJへの期待に触れたい。
アポなし対面取材の時代から多様化、対象範囲の拡大
筆者は現在、賛助会員の団体である「一般財団法人・新技術振興渡辺記念会」の理事長であるが、2018年からJASTJの監事を務めている。監事の1人は賛助会員から選出するという会則に基づいての就任だが、私が監事を依頼されたのは、科学技術庁の行政官として長らく科学技術分野で記者たちとの交流があったことによると思われる。

賛助団体の理事長という『二刀流』役を務める筆者(左端)。
JASTJ設立以前は、科学技術に係る情報は、科学ジャーナリストが直接情報源にかなり自由に接触し、取材してマスコミ媒体を通して一般の人に提供するという形であった。筆者も役所の執務室の机のところで科学ジャーナリストの方々からアポなしで取材を受けたこともあった。
JASTJが設立されたのはインターネットが普及し始めたばかりの頃で、その後のインターネットの進展は誰もが情報発信できる革命的ともいえる変化を世の中にもたらした。さらに、1992年にリオデジャネイロで開かれた地球サミットとその後の取り組みに象徴されるように、科学技術の進歩と地球環境問題との関係や社会への影響まで科学技術ジャーナリストの守備範囲が広がってきた。即ち、設立後の30年間は、インターネットをベースに指数関数的に増大する情報に対して取材方法が多様化し、扱う対象範囲も拡大する中での情報発信という難しい課題をこなしてきたと言えよう。
生殖医療、フェイク対策など世界共通課題で情報発信を
今後は、科学技術をめぐる状況がますます大きな変化を遂げていく中で、JASTJに求められる役割も進化していくであろう。
デジタル化やAIの進展が加速度的に進み、その活用はもはや社会全体で避けて通れなくなった。仕事面では効率化や正確さの確保など、どの組織でもアウトプット向上に寄与してきている。とくに日本社会ではコロナ禍への対応から急速にデジタル先導社会となり、組織体制や仕事の仕方を変えざるを得なくなっている。生成AIの急速かつ広範な普及は、予想もつかなかったほどの社会変革をもたらしつつある。特に教育分野への影響は大きく、年齢に基づく一律的な義務教育を含めた現行の教育制度の変更を迫るものとなろう。
さらに大きく進展するのは、生命・医科学分野の科学技術である。特にiPS細胞、ゲノム編集などの再生医療等の先端医療に係る技術開発や実装においては、倫理問題や人生観・価値観の変化など対応には従来よりもかなり広い分野の叡智が必要となろう。難病の治療など医療面での恩恵は大いに期待される一方、若返りなどヒトの成長過程に対する問題提起や生殖医療に係る倫理的問題など解決が難しい課題が多く出てくると思われる。
このほか国内における人口減少問題は科学技術と密接に対応している。大規模災害やフェイクニュースへの対策など世界的な共通課題も多い。にもかかわらず世界における日本の科学技術力の評価が低下してきた。筆者は、かつてOECDの科学技術関係の2つの常設会議に5~6年間参加して多国間の会合での発言の重要性を痛感し、積極的に発言するようにした。また、約15年間にわたって国際剣道連盟事務総長として日本の文化・伝統に基づく剣道の世界への普及に努めた。これらの経験から、現在の日本の世界でのプレゼンスの低下を憂慮している。こうした状況に鑑み、世界における科学技術情報の発信で日本の存在感を高めるうえでも、JASTJがこれまでの30年に続く時代に、さらに活躍されることを期待したい。

開催国イタリアの剣道連盟の幹部らと(筆者は右から2人目)。