[Vol.1] JASTJの原点を振り返る|これからの科学ジャーナリズムとJASTJ 

日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)は2024年7月1日に設立30周年を迎えました。その機会にこの30年間を振り返り、今後の科学ジャーナリズムやJASTJのあり方を議論して記念誌を作ろうと編集チームを立ち上げました。その一環で2025年5月14日、編集チームを中心にした会員有志がZoomを介して集まり、この30年を振り返りながらJASTJと科学ジャーナリズムの現状と将来について意見を交わしました。Vol.1では、30年前のJASTJ創設の原点を振り返り、長年の会員が語ります。

[Vol.1] JASTJの原点を振り返る(本ページ)

[Vol.2] 変わりゆく情報空間

Vol.3] JASTJの未来を展望する

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Index

  1. 創立時に掲げた3つの役割
  2. 「何でも検証プロジェクト」の活用
  3. 科学記者「共闘」の場を
  4. 会員の多様性進めた規約改正

司会進行:佐藤年緒(30周年記念誌編集委員、JASTJ理事)
参加者 :井内千穂(同、同)
     井上能行(同、同)
     柏野裕美(JASTJ副会長)
     亀松太郎(30周年記念誌編集委員、JASTJ会員)
     杉村健 (JASTJ会員)
     高木靱生(30周年記念誌編集委員、JASTJ理事)
     高橋真理子(JASTJ副会長)
     武部俊一(30周年記念誌編集委員、JASTJ顧問)
     都丸亜希子(同、JASTJ理事)
     中川僚子(同、JASTJ会員)
     藤田貢崇(同、JASTJ理事)
     宮野きぬステファニー(同、同)
     室山哲也 (JASTJ会長)
     森時彦  (JASTJ理事)

50音順、役職は座談会開催の時点

創立時に掲げた3つの役割

佐藤 今日は、これまでの30年を振り返りながらJASTJと科学ジャーナリズムの在り方についてご意見をお聞きしたいと思います。

井内 私は入会してまだ5、6年しか経っておらず、30周年記念誌プロジェクトに参加したおかげで、JASTJ設立の経緯を初めて知ることができました。1992年に第1回科学ジャーナリスト世界会議が東京で開かれ、その時に運営を担ったマスコミ各社の科学記者から成る実行委員会を母体に、2年後の1994年7月にJASTJが設立されたということです。

会報第1号に初代会長の岸田純之助さん(故人)が、JASTJの役割を3つ挙げています。1つ目が、世界各国の科学ジャーナリストたちとつながり情報交流すること。2つ目が新聞放送出版などの企業で、孤立しがちな科学ジャーナリストの組織を超えた交流の枠組みを作ること。3つ目が、行政や企業などの情報源とは少し異なる角度からニュースを眺めて分析する、いわばテクノロジーアセスメントの機能を持つ集団を作ること。それがJASTJの出発点だったのだということを、最近知りました。

JASTJに長くいらっしゃる武部さん、高木さん、井上さんは、この3点の中で、どの役割を特に意識して活動してこられたのでしょうか。

武部 岸田さんが掲げられたJASTJの3つ役割で、やっぱり2番目のジャーナリスト交流がスタートなんですよね。こういうことが必要だなとみんな思っていたけれども、発足のきっかけがなかった。結果的に良い組織ができ、それがどんどん好ましく成長してきています。

科学ジャーナリストというのは、新聞、放送、雑誌、いろいろな報道媒体にいたんですけれども、だいたいそれぞれの会社組織の中で冷や飯を食っていたわけです。「科学なんか知らないよ」なんてうそぶく幹部がたくさんいましたから。そういう職場に対する不満みたいなものがあって、ライバル同士でも共闘したいなという気持ちがあった。

そんな折、ユネスコから国際会議開催が持ちかけられた。その受け皿として組織委員会ができて、初めて日常の組織を超えて科学ジャーナリストが集まり、初めての科学ジャーナリスト世界会議を1992年に成功させた。当時は寄金もかなりたくさん集まって余剰金もあったから、これはもう解散するのがもったいないということで、2年後に設立されたのがJASTJなんです。

だから、一つは科学ジャーナリスト同士の共闘というのがあった。もう一つは、科学や技術がものすごく幅広くなって、社会とのつながり、世界とのつながり、そういうものを一人の記者が全部目配りすることがなかなか難しくなってきたところで、情報を共有したいという気持ちも出てきていましたね。そういう希望があり、それから意欲もあった。共闘と情報の共有というのが原点になっていた。

そういう意味では、岸田さんの言う交流志向はだいたい達成された。そのうち科学ジャーナリスト塾や科学ジャーナリスト賞などの活動が生まれた。特に科学ジャーナリスト塾で、いろんな人が集まってきて、積極的に参加してくれた。年齢的にもジェンダーバランス的にも、すごく理想的な組織に育っていると思います。

1番目の世界の科学ジャーナリストとのつながりというのは、初めて東京会議でつながったんですけど、そのあと、ハンガリー、ブラジル、カナダと世界会議が続いてきた。日本からも何人か参加して、つながりを深めてきた。ハンガリー大会で提案された世界連盟の設立も実現できた。日本で繰り広げられたアジアのジャーナリストの研修(SjCOOP Asia、https://jastj.jp/sjcoop/)は、世界科学ジャーナリスト連盟ができた後の具体的ないい活動になったと思います。

残された課題は3番目の「ジャーナリストによるTA(テクノロジーアセスメント)」。岸田さんはここを一番、強調したかったと思います。日本でも1970年代頃から旧科学技術庁の計画局の中にTAに熱心な人がいて、国の制度として定着させようかなという動きもあって、岸田さんも朝日新聞の論説委員として支援したんですが、やっぱり省庁の縄張り争いとかいろんなことがあって実現できなかった。日本では官製のTA制度は無理なんじゃないか。そこで科学ジャーナリストの視点から技術を吟味する使命は高まっていると考えた。JASTJは「何でも検証委員会」を設けて、検証プロジェクト活動に力を入れているけれど、これを広げ、深めてTA活動に発展させていきたい。

「何でも検証プロジェクト」の活用

高木 JASTJができたとき、私はまだ日経新聞の現役で大変忙しかったので、参加していません。日経の先輩でJASTJの初代事務局長をされた浅井恒雄さんに入るよう勧められたのですが、なかなか入れなかった。私が参加したのは日経を辞める1年ほど前の2002年頃だったと思います。JASTJが設立されたのが1994年ですから、その8年ほど後のことで、日経では日経サイエンス社の編集長から社長も兼務するようになった頃です。時間的にだいぶ余裕も出てきたので入らせていただきました。

現役時代は科学技術部の中でも特定の記者クラブに属するというようなことはそんなになかったんです。他社の記者との付き合いもあまりなかったので、JASTJに入ったことで他社の方とのお付き合いというか、意見交換みたいなことがかなり密にできるようになったのが非常に良かったと思っています。

JASTJの活動の中で特に記憶に残っているのは、「何でも検証プロジェクト」という仕組みです。元NHKで第3代会長の小出五郎さん(故人)が積極的にリードして作られたと記憶していますが、「この指とまれ」方式で会員がだれでも集まって興味を持ったテーマについて共同で議論したり取材したりする活動ができる。あの仕組みがあったおかげで、3.11の東日本大震災で福島原発事故が起きた後、すぐに小出五郎さんや朝日新聞OBの柴田鉄治さん(故人)、NHKのOBの林勝彦さん(故人)、毎日新聞OBの横山裕道さんらといろいろ議論して事故の検証活動ができたことが強く記憶に残っている。

最終的に『徹底検証!福島原発事故 何が問題だったのか』など2冊の本を2013年に出版できたこと、さらに2017年には「福島原発事故再検証委員会」を立ち上げて事故後にできた政府・国会・民間の3事故調の委員長にインタビューし、その結果をJASTJのホームページに掲載できたことが印象に残っている。そういう場が作れるというのは、JASTJならではだと思います。

佐藤 やはり組織を超えた交流というか、科学記者同士で一仕事をされた。事前のアセスメントというよりは、むしろ事故が起きてしまった後の検証ですね。

武部 何でも検証プロジェクトで、成果として形になったのは原子力だけですよね。福島原発事故をめぐる4つの報告書を分析して、いい成果にまとまりましたね。地方の小水力発電の可能性を検証しようとしたプロジェクトは、中心になった小出さんが途中で亡くなって尻すぼみになりました。ワクチンやスーパーコンピューター開発の検証も、成果を出すまでには至らなかった。

高木 そういう意味で、何でも検証委員会っていうのが非常に良いシステムだなと思っていますが、これまでそんなに活用されてないんですよね。若い方たちには、ぜひ仲間を募って活用してほしいと思っています。

科学記者“共闘”の場を

井上 岸田さんが提唱した役割のうち2番目の「交流の枠組み」が、2000年に私が入会した動機です。東京新聞の科学部長になったときです。管理職だと社内にいる時間が長くなり、まさに「孤立しがち」。部長を終えて科学ジャーナリズムの世界から離れたときに一度、退会しましたが、会社を退職したのを機に再入会しました。JASTJのおかげで旧交が復活し、新しい友達ができました。

日本の企業は会社単位の付き合いが中心で、同じ職種の人が集まって話す機会というのは少ないと思います。マスコミで仕事をしている人だけでなく、科学に関する仕事をしている人にとって、JASTJは「出会いの場」だと思います。

佐藤 私が在籍していた職場(時事通信)でも、科学報道の教育体制はそんなにしっかりしたものはなく、他社の科学記者に学んだところが多かった。JASTJに入会したきっかけは私もやはり世界会議で、実行委員会が結成されたときに仲間に入れていただいた。まさに“孤立しがちな科学部記者”を肌身で感じていたところもあったので、会社組織を超えたつながりにすごく励まされたことがあります。

先ほど武部さんが言われた「共闘」と「共有」のうち、「共闘」とは、科学にあまり理解がない会社組織とか社会的な土壌といったものに対する闘いっていうことですね。

武部 あえて「共闘」と言ったのは、自分たちの媒体とか報道体制に対する闘いでもあったわけです。科学ジャーナリズムというのは、これからどんどん大事になっていくということを認識させるという意味では、一人で言っているよりもやっぱり塊として発信したい。本来、ジャーナリストというのは一匹狼で、あまり群がって何かするということは好まないんだけれども、それを超えて一緒にちょっと元気出そうやということで始めたのが、なかなか気持ちのいいジャーナリスト会議になったと思います。

会員の多様化進めた規約改正

井内 JASTJに入れていただいた時、「科学記者でもないのに入れてもらえるんですか?」と聞いたのを覚えています。設立当時は、新聞社やテレビ局などに所属している科学記者の方々が中心だったようですが、だんだんとフリーランスのジャーナリストやサイエンスライター、大学や研究機関の職員、企業の広報担当者も加わり、それ以外にも今では本当に多彩な会員がいます。室山会長も会報の巻頭言で「文化のるつぼ」と書いていました。そのように会員がどんどん多様化した流れの中で、私も入れてもらえたのだと思っています。

もともと新聞社の科学部に所属する科学記者である、いわば“王道の会員”の方々は、その多様化の流れをどのように受けとめてきたのでしょうか? 会員の多様化について、お考えを伺えればと思います。

武部 発足時のJASTJ名簿を見ると、会員と準会員が区別されているんです。例えば天文学者の小尾信彌さんなどの研究者や作家、企業の広報の人は準会員に入っている。準会員は百人足らずの会員の十数人ぐらいだったかな。でもまもなくその制度はなくなった。全部、会員にしようということになった。純粋の科学ジャーナリストの会議でいきたいという反論も少数意見ながらありました。

科学コミュニケーションと科学ジャーナリズムがどう違うのかと言われるとはっきりしてないですけど、科学コミュニケーション、それに科学教育の関係者、あるいはそういうことを勉強したり批判したりしたい人、例えば科学ジャーナリスト塾に入られ、その後会員になられたノーベル化学賞の白川英樹先生なんかもその一人かもしれない。そういう人たちも迎え入れて、すごく多様化されたということで、好ましい方向に進んだと思います。

高木 会員の幅を広げたのは牧野賢治さんが会長の時だったと記憶しています(*)。私はその時まだ現役だったので、理事会にもあまり出てなかったのですが‥。ただ、日経新聞の先輩で、当時のJASTJ事務局長だった浅井さんがいろいろ言われていたのを記憶しています。科学技術ジャーナリスト会議なのに科学コミュニケーターなど、あまりいろいろな人を入れるのはどうなのかなど‥。

ただ、その背景には会員の数をもっと増やしたいという議論があったと聞いています。そういう背景があって科学ジャーナリストだけではなくて、いわゆる科学コミュニケーターと言われる人たちも会員にしていいんじゃないかと。

(*)2003年の総会で会則を大幅改正した。

武部 要するに会員を増やしたかったわけです。それまで年会費が24,000円だったんです。それを半額にした。半額にするには会員数を倍にしないと話が合わない。会員を増やそうとしても、現役の科学ジャーナリストは日々の仕事が忙しいから、彼らから見るとサロンみたいなところに参加する余裕がないよということで、会員資格の幅を広げないと、というのが実態だったんじゃないかな。

高木 結果として私は悪くなかった、多様な人たちが入って良かったかなと私は思っています。

武部 実際に会員数が倍になりましたからね。

高木 ただ、いわゆる科学ジャーナリストの原点、精神はやっぱり忘れたくはないなというところがあります。単にお上が言うことを伝えるっていうことではなくて、常に批判精神を持ってやるということを、皆さんが理解してくれるというのが一番だと思っています。

武部 科学技術ジャーナリスト会議に入ったからには、科学コミュニケーターも精神としては科学ジャーナリストの精神でやってほしいということですよね。

佐藤 牧野さんが会長だった時に私は事務局長だったので、規約改正の時の考えはよく彼から聞いていました。枠を広げたのは会員数を拡大したいっていうことがあり、それにはあまりにも会費が高いという問題もあった。やはり大組織にいる科学の専門記者だけでなくて、科学ジャーナリズムに関心のある人なら誰でもいいんじゃないかということにしたのです。「関心のある人」であれば、市民でもいい。科学コミュニケーターもその一環だろうしと‥。

会社の広報も科学をどう伝えるかという点でやはり一緒に考えていこうとしている人たちだと解釈をして規約を改正した。十年目を迎えるときに牧野会長が思い切って拡げた。世の中でサイエンスコミュニケーションという言葉、概念が非常に言われるようになってきたということも背景にあった。

高木 日本科学技術ジャーナリスト会議という名前がついていることが、ある一定の枠組みを保つ上で非常に重要かなと思っています。科学コミュニケーターはもちろん、いろんな方が入るのはいいことなんですが、科学技術ジャーナリスト会議という名称が一つの枠組みを決めているという意味で、非常に重要なことなのかなと私は思っています。

[Vol.2]は、「変わりゆく情報空間」がテーマです。インターネットの社会への普及による情報空間の変化について語り合い、より良いメディアの可能性を考えます。

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