JASTJでは、毎年、科学ジャーナリスト塾を開催し、いかにして科学を社会に伝えるかを学び合う機会を設けております。このたび第17期の塾生がそれぞれの課題に取り組み、独自の切り口で取材をして作品制作に取り組みました。作品を紹介します。
- 事件から50年――まだ終わっていない カネミ油症を撮り続けた写真家 河野裕昭さんに聞く 梶浦真美
- 高校生が先端科学と出会う5日間 「数理の翼夏季セミナー」 葛貫森信
- 日本初の南極オーロラ観測 ~オーロラ研究者・中村純二の未公開日誌~ 序 中村玲子
- 奥能登輪島の化学教育者、日吉芳朗が残した「あしあと」 富樫一天
- 過信は禁物! 食の健康情報 〜“フードファディズム”にご用心!〜 木村滋子
- 日本の天文学の危機 野辺山宇宙電波観測所から見た未来 三浦飛未来
事件から50年――まだ終わっていない
カネミ油症を撮り続けた写真家 河野裕昭さんに聞く
梶浦真美
戦後最大の食品公害といわれる「カネミ油症事件」(註1)が発覚してから50年が経過した。何も知らずにダイオキシン入りの食用油を食した患者は、現在も「病気のデパート」を背負い、被害は次世代にも及んでいる。1971年から8年間にわたって患者と生活を共にし、油症を撮り続けた写真家、河野裕昭さん(68)は、「ゼロではないにしろ、写真はあまり役に立てなかった」と言葉を詰まらせる。
事件の原因企業カネミ倉庫がある北九州市で育った。東京の大学に進学し、水俣病の啓発活動への参加がきっかけで、油症事件の被害者が支援を求めていることを知る。「地元で大変なことが起こっている」。
実家の近辺から撮影を始めた。稲刈りや漁の手伝いをしながら話を聞き、裁判の陳述書の作成を手伝い(註2)、未認定患者の掘り起こしにも同行した。当時、水俣には100名以上のカメラマンが訪れていたが、油症はほとんど注目されていなかった。西日本一帯に散らばる患者たちを訪ね歩き、ひとりで写真を撮り続けた。
1975年には写真集『カネミ油症――河野裕昭写真報告』(西日本新聞社)を発表。78年にカネミ倉庫に損害賠償を求めた裁判の一審勝訴を見届け、東京に戻る。その後、テーマを「自然と科学技術」に移し、動力エネルギーの原点である水車を求めて全国を回った。
油症のことはいつも心にあった。台湾でカネミ油症に酷似した油症事件が発生したことを受け、83年に現地を訪問。台湾政府が積極的な救済措置と疫学調査を実施する様子を目にし、日本との差に羨ましさを覚えたという。
カネミ油症の法廷闘争は89年まで続いた(註3)。2012年に救済法が成立したものの、認定基準のハードルが高く、事件当時に油を摂取して身体症状を有していながら認定されない患者も少なくない(註4)。患者の子や孫に健康被害が報告されており、厚生労働省は「油症母親を介して児にPCBなどが移行する場合もある」と明言しているが [1]、実質的は、2世、3世の大半が救済の対象外である。
発覚から半世紀たった2018年、河野さんの元には「事件を若い世代に伝えてほしい」と、写真展の依頼が相次いだ。11月には長崎大学にて講演も行った。当時を知る者として、何が起きたかを伝える使命は果たしていくが、まだ患者さんには会えない、合わせる顔がない、と河野さんは云う。「『遊びにおいで』と言ってくださるんだけれどね」。患者さんが自分にシャッターを切らせ続けてくれたのは、産業を野放しにしていたらどうなるかを世の中に伝えたいという思いがあったからだろう。それなのに、被害は子や孫に引き継がれ、今や、事件自体が忘れ去られようとしている‥‥‥。
「自分の非力さを思うとやるせない」と、河野さんは話す。しかし、写真展を取材した長崎新聞の記者は「カネミ油症に、私たちはまだいろんなアプローチができるはずだ。そんな勇気がわいてきた」と書いた [2]。10月には読売新聞 [3]が、2019年の1月には朝日新聞 [4]が、全国版にて、カネミ油症を河野さんの写真と伴に取り上げている。油症事件という『負の世界遺産』 [5]を今ここでしっかりと見つめよう、と、そうした動きが始まっているとみるのは、希望的に過ぎるだろうか。
カネミ油症は終わっていない。河野さんの写真は、これからも油症の歴史を伝え続ける。
註1)【カネミ油症】1968年10月、北九州市のカネミ倉庫が製造した食用油を食べた人が発症した食中毒被害。食用油の製造工程でポリ塩化ビフェニール(PCB)が混入し、加熱されてダイオキシンに変化したことが原因とされる。皮膚症状や内臓疾患、神経症状、全身の倦怠感、吐き気、頭痛など多様な症状が現れ、被害は胎盤や母乳を通して次世代に移行する。1970年7月1日までに西日本一帯の1万4320人が被害を届け出たが、2017年度末の認定患者数は2322人(死亡者を含む)に留まる [3]。汚染された油の回収が決定したのは事件発覚から3カ月後で、販売経路の調査は徹底されず [6]、被害の広がりの実態は不明のままである [7]。
註2)【行政の責任】1970年、患者たちは、カネミ倉庫、PCBを製造した鐘淵化学企業といった原因企業に加え、国に対しても「危険を予見できた」責任を求めて損害賠償を求めた。油症被害が明らかになる約8カ月前、カネミ倉庫製の油を混ぜた飼料を食べた鶏が大量死する「ダーク油事件」が発生した。この時、農林省(当時)の担当者がカネミ倉庫に立ち入り調査をしていたが、農林省から食品衛生を所管する厚生省(同)に通報されることはなく、油の回収に至らなかったという経緯がある [3]。
註3)【法廷闘争】いったんは全面勝訴し、国から仮払金が支払われたが、後に、カネミ倉庫の工事ミスが原因であることが判明したため、国と鐘化に対する責任追及が困難になった。患者が訴訟を取り下げ、89年に和解が成立すると、国は仮払い金の返還を患者に求めた。返還を免除する特例法が成立したのは2007年のことである [3]。
註4)【認定制度の妥当性】油症認定は皮膚症状や血中ダイオキシン濃度等の認定基準に基づいて実施される。救済法成立以降の6年間で、自治体の検診を受けた延べ918人のうち患者認定されたのは36人で、認定率は3・9%にとどまる [8]。水俣病研究の第一人者として診察や調査などに尽力した故原田正純医学博士は「比較的早期ならまだしも、発生から35年近く経過してから、血中濃度を診断の根拠とするのは合理的でない。摂取した量や年齢、性別、治療、症状の経過、排出機能 の差などによって千差万別であるのが常識であろう」と指摘 [9]。長崎大環境科学部の戸田清教授も同様の指摘をし、「証言や自覚症状で認定するなど制度を大きく見直さなければ、真の問題解決にはならない」 [8]。また、岡山大学大学院環境学研究科の津田敏秀教授は、食中毒では、通常ならば原因食品を食べて症状が出ていれば患者と判断されるのに、認定制度があること自体がおかしい、と指摘している [6] [10]。
文献
1. 『カネミ油症の手引き』(平成25年度 油症研究班)厚生労働科学研究費補助金(食品の安全確保推進研究事業).
2. 『長崎新聞』2018年9月5日記事.
3. 『読売新聞』2018年10月28日記事.
4. 『朝日新聞』2019年1月5日記事.
5. 『対話集 原田正純の遺言』 朝日新聞西部本社、2013年 p112. 「いま、ダイオキシンが世界的に問題になって、教科書はどこにもない(中略)低濃度のダイオキシンが人体にどういう影響を及ぼすか、あるいは次の世代にどういう影響を及ぼすか、世界中の人が注目しているんです。これは負の世界遺産なんですよ。だから、もっと大事にせないかん。これだけの犠牲を払ってカネミ油症の問題が何にもならんというのは、とんでもない話ですよ。亡くなった人たちが浮かばれんもんね」.
6. 『朝日新聞デジタル』2018年11月6日記事.
7. 『東京新聞』2018年10月20日記事 立正大学教授(社会学)堀田恭子氏.
8. 『西日本新聞』2018年11月16日記事.
9. 『カネミ油症事件の現況と人権』 原田 正純ら、社会関係研究 第11巻 第1・2号 2006年.
10. 『カネミ油症と台湾油症の比較』、金星、九州地区国立大学教育系・文系研究論文集, 5(2), No.4; 2018年.
高校生が先端科学と出会う5日間
「数理の翼夏季セミナー」
葛貫森信
20時、夕食後、風呂上がり。和室にホワイトボードが置いてあるだけで、自然に人が集まってゼミが始まる。大学教授が数学を、大学生が生物学を、高校生一年生がプログラミングを、それぞれ車座になって語っている。話す側も聴く側も、誰に言われるでもなく、自分自身の興味と好奇心に従ってそこにいる。
「夜ゼミ」と呼ばれるこの光景は、毎夏「数理の翼夏季セミナー」の一幕として日本のどこかで繰り返されてきた。同セミナーは高校生約40人を対象とした5日程度の理数教育合宿で、日本人2人目のフィールズ賞受賞者・広中平祐が創始して以来、39回が開催されてきた。
朝~夕の講義は最先端の研究者が自身の研究や関連分野の内容を伝えるもので、高校範囲に収まらない高度な内容が展開される。生徒には科学の国際大会に出場経験があったり、自身で既に研究を行っていたりといった偉才が多くおり、任意で自身の興味をプレゼンする「参加者発表」も盛況だ。
筆者も過去に合宿に参加した一人である。日ごろ高校では「勉強が好き」というと変わり者扱いされる空気もあった中で、マニアックな内容を学ぶことに対してシニカルな雰囲気が全くない合宿場の空気は新鮮だった。
現役の研究者や個性的な生徒が集まる理由はどこにあるのだろう。また、長年にわたる開催はどのような思いに支えられているのだろうか。
セミナーの主催を広中から引き継いだNPO法人「数理の翼」の理事長、上野雄文(九州大学医学部臨床教授)に話を訊いた。
――「数理の翼」の誇れる点は。
それはもちろん人材教育で成果を上げている点です。現在、国内外の大学、それも数学・経済学・化学・医学など様々な分野に、数理の翼出身の教授がいます。合宿参加者がお互いに刺激を受けて、視野を広げて高め合った結果、実際に数理科学を社会に役立てる地位についている。セミナーが40年間人を育ててきた成果が今まさに花開いているところです。次にインタビューするならOB・OGを渡り歩いたら面白いと思いますよ。
さらにそうして育った人たちが、セミナーに感謝を抱いて講師をやってくれたりする。育ててもらったから次を育てる、という流れがごく自然に続いています。今後も数理の翼から優れた人材が次々生まれていくでしょう。
――面白い生徒を集める秘訣は?
NPOの独立性を維持してきたことですね。私達はどこの機関にも属さないから、誰の推薦でもどんな成績でも、応募の作文から受け身な姿勢を感じたら落とします。科学が本当に好きでたまらない、熱意や好奇心を持った子らを集め続けてこそ、創造的な出会いが生まれます。
――譲れないところはありますか?
「参加費無償」と「交通費の補助」ですね。数理の翼の存在意義の一つは、数理科学に才能や意欲を持ちつつも学問的な環境に恵まれない子に、最先端に触れる機会を与えることにある。私の専門はヒトの脳の発達ですが、才能は場所を選ばず偶発的に生まれる、と考えられています。「受益者負担」なんて言ってお金を出し渋ったら、都会の金持ち以外の貴重な才能を取りこぼしてしまう。
私自身、熊本の片田舎で塾にも行かせてもらえなかった身で、参加費無償のセミナーだったからこそ広中さんに拾ってもらえました。今はその「恩送り」をしているところです。
毎年きちんと全国から生徒を集めることと、良い人材なら誰でもどこからでも来られるよう参加費も交通費も支援すること。それが私の信念です。
――2011年の地震の後の自粛ムードの中でも開催していて驚きました。
当たり前です。地震の後だからこそ、復興の科学技術を担う人材が要る。こちらも遊びでやっているわけじゃない。目の前のムードに流されず、どっしりと長いスパンで考えるようにしないと、ひとを育てることなんてできません。あの年の参加者たちの中から、将来研究や科学技術政策で活躍してくれる人が出るかも知れませんしね。これからも毎年続けるつもりですよ。
次回で40回目を迎える数理の翼夏季セミナー。科学教育の恩送りのバトンは、まだまだ途切れなさそうだ。
合宿の様子、支援の方法など、「数理の翼」についてもっと知りたい方は下記URLから。
http://www.npo-tsubasa.jp/
日本初の南極オーロラ観測
~オーロラ研究者・中村純二の未公開日誌~ 序
中村玲子
※書籍の序文を想定した作品です。
天空を舞う壮大なオーロラは、古くから私たち人類を魅了しています。
オーロラが科学研究の対象となったのは19世紀後半以降で、今日までに多くの科学観測が行われてきました。
なかでも1957〜58年の「国際地球観測年(IGY)」は国際協力のもとで電離層から海底までの地球物理学に関する包括的な観測が行われました。このとき、オーロラに関しては北半球の約50カ所に全天カメラを設置することに加え、同時に日本でも南極に基地(昭和基地)を作り観測をするという、前例のない規模の観測が計画されたのです。敗戦後約10年の日本にとって、南極に基地を建設しIGYの観測に参加することは、再び世界の一員としての復帰を果たす重要な機会となりました。
本書は、観測準備が行われた第1次観測(1957年)から本観測が行われた第3次観測(1959年)まで、南極観測隊員としてオーロラ・夜光観測を担当した中村純二の口述と未公開日誌をもとに、日本の南極オーロラ観測黎明期のようすを辿ったものです。中村は東京大学教養学部の助手として、原子の発光現象の研究をしていました。日本が南極観測をすることになったので、急遽オーロラの研究を始めるために、東京大学天文台(現:国立天文台)に併任となり、測光部に所属をしてオーロラの観測準備に入りました。
初期の南極観測というと、樺太犬のタロとジロの『南極物語』を思い浮かべる読者もいるのではないでしょうか。1958年2月、第2次越冬隊は悪天候のため昭和基地での越冬を断念しました。15頭の樺太犬が基地に取り残され、翌年1月の第3次越冬隊が奇跡的に生存していたタロとジロと再会したのです。
この第2次越冬隊で、中村は機械担当の丸山八郎隊員と気象担当の守田康太郎隊員とともに先発隊として昭和基地に入りました。しかし、あまりの悪天候のために、後続隊を送ることは不可能と判断され、越冬を断念せざるをえなかったのです。
氷に閉ざされた南極観測船「宗谷」の船上、意気消沈する隊員もいるなかで、中村は希望を失わず、翌年に本観測を実現するためにはどうしたらいいかを冷静に考えました。そして「今年はあきらめても、来年には本格的に観測をしたい」と日本政府の南極観測隊派遣本部に要望書を提出しました。
詳しくは本文で述べますが、ついには予算が認められ、翌年に第3次観測隊が送られることになりました。第3次観測では、中村は越冬隊員としてオーロラ(当時は極光と呼ばれていました)と夜光を観測することになりました。この年はまれにみる太陽活動の活発な年となり、結果として素晴らしいオーロラ観測ができました。日本の本格的な南極オーロラ観測の幕開けです。
南極オーロラ観測は試行錯誤からはじまりました。現在からみれば観測というより、探検といったほうがふさわしいものです。本書では初期の南極観測のようすを、自然を愛し困難を乗り越えて観測を成功に導いた中村の口述と未公開日誌、オーロラ観測資料をもとにエピソードたっぷりに紹介します。
本書の企画は、2018年度に開催された日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)の科学ジャーナリスト塾(JASTJ塾)でアドバイスを受けるうちに、筆者の義父である中村純二の書庫から未公開日誌を発見したことに始まりました。それは幻とよばれる第2次観測隊の未公開日誌を含むもので、当時の困難さがどれほどであったかを未来に伝える貴重な資料だと感じました。
本書の刊行にあたり、JASTJ、環境ジャーナリストの会、南極OB会、南極OB振興会ほか関係者の皆様にご協力いただきましたことを深く感謝いたします。
2019年2月 中村玲子
奥能登輪島の化学教育者、日吉芳朗が残した「あしあと」
富樫一天
2018年7月29日、輪島市で化学教育に一生を捧げた日吉芳朗氏が心不全でこの世を去った。享年75歳だった。輪島市の高校で化学の教員として勤めるかたわら、化学の歴史研究に力を注いだ。その成果は、日本化学会化学教育有効賞を受賞、また同学会から後年フェローとして称賛された。地元輪島の貝類や海藻、他に髪の毛、爪、血液といった身の回りにある天然物を取り入れた「化学史でたどる化学実験」によって、より身近な体験として教室にいる生徒たちに化学の魅力を伝え続けた。彼の「あしあと」を振り返る。
出会い、そして化学教育の道へ
日吉氏は1942年9月に石川県輪島市の薬局に生まれた。小学校高学年のとき、のちに彼の化学教育活動に大きな影響を与えた恩師の一人、米田昭二郎氏から化学のおもしろさを教わり、中学校から高校にかけて化学実験を繰り返すうち、しだいに化学の世界へとのめりこんでいった。才能は早くも高校時代に頭角をあらわし、金沢が生んだ化学者高峰譲吉博士顕彰会から高峰賞を授与された。金沢大学薬学部へ進学し、1965年卒業後、化学の教員になる道を選んだ。しかし、母校の輪島高校で教壇に立つも理論中心の現代の化学教育に違和感を抱くようになり、1971年に夜間定時制を受け持つようになってからその思いはさらに強まった。定時制の多くの生徒にとって、高校化学の教科書の内容を理解するのは困難であったため、「何よりも化学に興味をいだかせることが第一だ」と考えるようになった。
“化学のあゆみ”を実験でたどる教育の誕生
転機が訪れたのは、小学校時代の恩師米田氏との再会、そして金沢大学の阪上正信教授との出会いだった。両氏は化学史上の実験を化学教育に生かす試みとして、金沢市の石川県立中央児童会館で中学生を対象とした化学実験クラブを1971年から始めており、翌年から日吉氏も活動に加わった。「水の流れによって金を採取する」、「牛の血液より青色顔料のプルシアンブルーをつくる」といった実験を前にした生徒たちの目の輝きを見て、「泥遊び的に」化学実験を繰り返してきたかつての自分を思い出した。実験こそが化学の魅力なのだと。試行錯誤の末、「”化学のあゆみ”を実験でたどる化学教育」にたどり着いた。「生徒・学生の能力の発展に応じた形で、化学の築き上げられてきた現実を体験すること、すなわち化学史を実験でたどる」化学教育カリキュラムを完成させた。その成果は、1980年に東レ理科教育賞受賞として称賛された。
教員定年後、執筆した論文や記事を小冊子にまとめた。タイトルは「あしあと」。小学校5年のときに教科書で見つけて、この言葉が好きになった。「あしあと」のまえがきには、こう記されてある。
「『あしあと』を大切にすることが人生にとって最も重要なことではないかと考えるようになりました。仕事に行き詰まり、どうにもならなくなったとき『あしあと』をふりかえり、ときにはもう一度原点に立ってみること。それでもうまくいかないときでも、決してそれを捨てることをせず、時間を経てもう一度取り上げてみることなどです」
過信は禁物! 食の健康情報
〜“フードファディズム”にご用心!〜
木村滋子
日本の天文学の危機
野辺山宇宙電波観測所から見た未来
三浦飛未来
天文学において国内に研究機関があることは、天文学の進歩につながり、若手研究者の育成の場にもなる。その研究機関の一つに国立天文台野辺山宇宙電波観測所がある。長野県南牧村、八ヶ岳を背にし、パラボラアンテナが戦士のようにそびえ立つ。観測所は1982年に開所し、日本の天文学の拠点の一つである。日本の地上観測天文学は太陽以外で世界の最前線に出ることになった。観測所が出来てからは、45m鏡と国内外のアンテナとの間で実験も行われた。これにより、多くの星間分子発見、原始星周囲の回転円盤の発見、銀河系構造の研究など非常に多くの成果をあげ、電波天文学の発展に大きく貢献した。しかし、2018年8月、財政難により観測所は2019年6月をもって共同利用研究を中止する可能性が高いことが明らかとなった。閉鎖も危ぶまれている。そこで、今回は野辺山電波観測所所長、立松氏に取材を行った。
国内の研究機関が減ることは日本の研究者にとって活動拠点を奪われることになる。ただそれだけではなく、今後の天文学を担う若手を育成する場も減少するということなのだ。野辺山宇宙電波観測所では若手研究者の育成にも力を入れており、学生による観測や学部生向けに研究機関の装置を使用した観測実習も実施している。立松氏によればここでは、大学院の教育に貢献しており、毎年、修士論文を書く学生が10人、博士論文が3人いるそうだ。現に、野辺山電観測所で実施される電波観測実習がきっかけで研究者の道に進む学生は多い。また、実習に参加した学生が観測所の研究者の元で研究をし、今度は指導する立場として次の世代へと繋がることもある。若手の育成として総研大の主催する「サマースチューデント」という国内・国外の国立天文台・研究機関で行われる実習プログラムもある。このような国内研究機関で現役研究者に直接の指導の元、研究者さながらのプログラムで行われるのは非常に貴重だ。何より国内で行われるのは言葉の壁もなく、交通の費用も苦にならない。これは研究者にも言えることだ。
費用という点で、日本が天文学にかける費用は先進国の中でも最低レベルだ。お金の補助がない人でも利用できるシステム「共同利用」の停止、国外の研究機関に向かう費用が出せないなど、シビアな問題を抱える。実際に費用がないために世界プロジェクトに参加できないという例もあったほどだ。
では、国外の研究機関はどうか。ここで中国の政策を見ておきたい。現在の中国の宇宙開発技術における技術は年々高度になっている。論文の質は高くなり、数も大幅に増えた。これはかつての中国がNASAなどの外部機関に自国の研究者を送り込んだことが由来する。勉強のためと全国に送られた若い研究者が、実力をつけて自国に戻ってきているからだ。戻ってきた研究者を迎え入れ、洗練された知識と技術を生かした宇宙開発と研究を行っているそうだ。2016年9月25日より500m球面電波望遠鏡が稼働し、国内研究者をはじめとした使用が始まっているのは記憶に新しい。
今回は中国の例を出しているが、日本の宇宙業界はいかがだろう。国内の研究機関活動が制限されるのは研究者にとっても、天文学の研究を目指す学生にとっても痛手ではないだろうか。「研究者は研究者を育てるのも仕事だと思っている。しかし、そんな余裕は国内研究機関の減少や費用面から言えば、無い。日本の宇宙業界全体の発展は保たれるか危うく、他国に追い抜かれていくだろう。」と立松氏は口にした。