科学ジャーナリスト塾 第14期(2015年10月〜2016年3月)の記録

第3回 「『私が受けた作文教育』を読み合う」

 11月18日の第3回塾は、実践演習の日。高橋真理子・朝日新聞編集委員が「記事/報告文の書き方」をテーマに文章指導をしました。あらかじめ塾生に示した課題である「私が受けた作文教育」についての文が12人の塾生から提出されたことから、これらを皆で読み合いました。
 高橋講師はエッセイと報告文との違いや、報告文に必要な要素などについて解説。12人の文を塾生らとともにコメントしました。どの文を読んでも、日本の学校教育のなかで体系だった報告文の教育は受けていないことを伝えています。以下3作品は、個人がどのような努力や工夫、苦労をしながら、文章の技を習得してきたかを物語っている貴重な記事だと評価して、ここに紹介します。

〔塾生の投稿記事から〕

英語・論文・読書感想文  大崩貴之(塾生)

 作文と聞いて真っ先に思い出すのは小学校の読書感想文である。しかしそれは宿題として与えられるもので、書き方を習うわけではない。感想を書き連ねるだけの作業に意味を見出せず、前書きと後書きだけを読んで適当にまとめたのを覚えている。作文の教育という点では、文法などの言語学の基礎は中学校の英語の授業、作文技術そのものは大学院での論文執筆が私にとって大きな糧となっていると思う。

 日本語に囲まれて育った私は、当然のように日本語を話し、読み書きができるようになった。特に文法などを意識したことはなかったが、それで困ることもなかった。事情が変わったのは英語の勉強を始めたときである。主語や動詞といった、それまで意識しなかった文を構成する要素の存在をそこで初めて学んだ。比較する対象ができるとそれまで当たり前に使っていた日本語を客観的にみることができ、主語が省略されるといった日本語の特性も理解することができた。

 とはいえ、作者の意図だけ読み取れれば困らない環境で大学まで過ごしてきたため、作文の仕方を本格的に意識する必要が出てきたのは論文執筆を始めてからである。論文は客観的事実とそこから導かれる論理的帰結だけを記す場なので、曖昧な表現が多いと言われる普段使いの日本語感覚で書くと誤解が生じやすい。論文に求められるような、事実と解釈を区別することや、根拠を引用することなどの諸規則を指導教官の指導のもと実践の中で学び、今に至る。

 私の作文能力の背景は英語と論文にあるが、文章を書くという行為には様々な目的があり、それに合わせて手段も変えなくてはならない。科学的主張を論理的に述べることだけが作文ではないことは、市民向けコラムなどを執筆するようになって改めて理解した。目的に応じた様々な方法で文章を書くことの大切さと難しさを実感するようになった今になって、読書感想文も真面目に取り組むべきだったと反省してもしきれない。

私の文章修行  青木田鶴(塾生)

 私の文章の師は、児童文学作家だった母である。文章にこだわる母と根っから議論好きな父の教育方針は変わっていた。たとえばマンガ3原則:マンガは買わない、借りない、持ちこまない。テレビは土曜日の決まった番組だけ。私たち4人姉妹は友人との隔たりにいつもため息をついていた。中でも異色だったのが、ことあるごとに書かされた作文だ。読んだ本の感想、旅行記、創作、それから叱られた後の反省文。

 4人も子どもがいれば毎日必ず何かが起こる。妹とけんかした、頼まれた手伝いをしなかった…ただ謝るのではなく、何が起こり、何が悪かったのか、これからどうするのか、両親に説明しなければならない。それが終わると母は「書くよ」と鼻息も荒く、原稿用紙と鉛筆を持ってくる。「自分が何をして、何を考えたのかをまとめる!原稿用紙3枚まで!」

 書き上がると赤が入る。「てにをは」から表現まで細かく直され、直しが2度3度に及ぶことも珍しくなかった。書いた文は著作権も個人情報の保護も無視され、担任の先生の手に渡ることもあった。これは中学生まで続いた。

 高校に入ると、母は作文指導をぱたりとやめてしまった。代わりに母は、読者としての批評を求めて、自分が書いているものを私に読ませた。私はいわば母のお抱え編集者だった。時間をかけて入れた赤を、母が採用してくれることが嬉しかった。

 研究の道へ進んでからは学術論文や申請書の書き方を学んだが、小手先の技術を習得しただけで教育を受けたという意識はない。プレスリリースも同じだ。幼い頃の修行で、書くことの基本が身についたといっても過言ではない。

 母は2年前に肺がんで亡くなった。抗がん剤の治療でぐったりしていても、童話のプロットの話をするとみるみる元気になった母。次の日には原稿用紙に向かっていた母。それを最期の作品に仕上げた母。思い出す度に、書くことの意味、書くことが人に与える力を、私は再確認する。

分かりやすく魅力的な文章を書くために  鈴木紀之(塾生)

 思えばロクな作文教育を受けてこなかった。小学生の頃は「起承転結」とよく言われたが、この流れを意識して文章を書く機会がほとんどない。

 自分の作文能力が上がったと思えたのは、いくつかの良著のおかげだった。

 日本語のスタイルに関しては、『日本語作文の技術』(本多勝一著)が必読だろう。特に、「語句を並べる順番」と「読点を打つ位置」はすべての日本人が知っておくべきスタンダードである。

 残念ながら、私がこの本を読んだのは大学院を修了してポスドクになってからのことだった。もっと早いうちに読んでおきたかった。著者が述べているように、初等教育の段階でこれらの法則を学ぶべきである。

 文章どうしのつながりや段落の構成に関しては、『書く技術・考える技術』(バーバラ・ミント著)が参考になった。特に、ストーリーの導入部(科学論文で「序論」に該当する部分)についての解説は秀逸であった。このルールさえ守っておけば、「分かりやすく伝える」という点では間違いないだろう。

 しかし、「分かりやすさ」の先にある「より魅力的な文章」の書き方について、私はまともに学んだことがない。

 サイエンスライティングでは、ストーリーの冒頭にキャッチーなエピソードを挿入し、読者をぐっと引きつける技法がよく使われているようだ。読者が共有する常識や一般論から始まる科学論文とは異なり、いかにリード文を魅力的に書くかが鍵となる。

 それは、「分かりやすい構成」を崩すからこそ、ひと際目立つ存在になるのだろうか。それとも、その「崩し」はすべての文章が採用すべき技法、すなわち「文章の法則」になりえるのだろうか。体系的な考察が欲しいところだ。

  
第3回の塾のもよう(撮影:都丸亜希子)