科学ジャーナリスト塾 第14期(2015年10月〜2016年3月)の記録

第2回 「歴史を記録する―科学ジャーナリストのもう一つの役割」

 第14期科学ジャーナリスト塾 第2回(2015年11月4日)で塾生が挑んだ課題「第2回塾の内容レポート」の中から4点を掲載します。

〔塾生の投稿記事から〕

「真実を後世に伝える」志で歴史を記録する  大畑久美子(塾生)

 11月4日夜、プレスセンタービル内の会議室にて、第2回科学ジャーナリスト塾が開催されました。この日の話題提供者は、北村行孝先生。読売新聞社会部、科学部を経て、論説委員や科学部長などを歴任されたご経験をお持ちです。

 会合の前半およそ1時間弱の間、北村先生が出版された書籍『日航機事故の謎は解けたか』を題材に、執筆の経緯や背景についてお話ししました。この回のテーマとして「歴史を記録する」というタイトルが掲げられていた通り、事実を記録し後世に残すというジャーナリストの使命について、ご自身の体験談を交えてお話くださり、塾生たちは熱心に耳を傾けていました。

 また、「事故調査」と「捜査」の違いについても言及し、責任の訴追よりも原因究明と再発防止に重点をおく「事故調査」の在り方についての課題も示されていました。

 北村さんのお話しを通じて感じたことは、「真実を伝えることの難しさ」です。歴史を記録し正しく伝えていくためには、多面的に様々な情報を収集した上で、主観に拠り過ぎず客観的な視点で文章を構築していく必要がありそうです。そのためには、テクニカルなスキルも求められますが、やはり「真実を後世に伝える」という志が重要なのではないかと思いました。

 また、「誰のためのジャーナリズムか」という思いも自分の中に生まれました。事実を伝えることが、どのような人のどのような幸福につながるのか、あるいは世の中のどのようなところでどのような発展に貢献できるのか…今まで考えてもみませんでしたが、これからは常に自分に問い掛け続けたいと考えています。

 話題提供の後は、塾生同志が顔を突き合わせて各々の考えたところについて意見を述べ合い、最後に各グループで出た意見を全体で共有しました。このように他の塾生と意見を交換することで、お互いに考えを深めていくことができたと思います。

取材メモの蓄積がものをいう  石塚集(塾生)

 隔週の水曜日、プレスセンタービルにて科学ジャーナリスト塾が開催されている。科学ジャーナリスト塾では、日本科学技ジャーナリスト会議(JASTJ)会員の記者が中心となり、科学技術の伝え方を塾生に教えている。11月4日の2回目では、読売新聞社会部・科学部OBで、現在は東京農業大学教授である北村行孝さんから、著書『日航機事故の謎は解けたか』(2015年発刊)を軸に、ジャーナリズム全般に関する話があった。そこで強調されたのは、取材メモを大切にとっておいたことが歴史を正しく伝えるのに役立ったということだ。

 この著書のテーマは1985年に起きた日航機123便墜落事故だ。飛行中の航空機事故では最大となる520名の犠牲者が出た。

 北村さんは事故から30年経って書籍を発刊した思いをこのように語った。「私の記者人生の中で一番大きな事件だったし、関わりが非常に大きかった。そして当時は様々な事情で語れなかった人たちがようやく語りだした。長い目で案件を見ることで、当時とは違ったものが見えてきた」。

 さらに、北村さんは取材メモに関して「入社した時に、先輩から取材メモは捨てるな。大切にとっておけと言われた。はじめは訴訟対策のためと思っていたけれど、新たな書籍の発刊にも結び付くような効用がある」と塾生に熱っぽく語った。これには塾に同席していたジャーナリスト経験者たちも同調して、メモをとっておくことの重要性を強調されていた。その場のいた証人として歴史を正しく伝えるためには、客観的なものはできるだけ残しておくことが大切なのだと改めて肝に銘じさせられる話だった。

 塾生同士の議論で話題になったのは「ジャーナリズム」の語源だった。北村さんからは「ジャーナル」はラテン語で「一日の」を意味すると説明 があった。これに「主義」などの意味の「イズム」がついて「ジャーナリズム」になったわけだが、ジャーナリズムとはどんな立場か、記事は主観 と客観どちらでかかれるべきものなのか、そもそも客観は存在するのかという話題で盛り上がった。この論点は塾を通して皆が、自分の立場を明確 にしながら考え続けることになるだろう。

歴史のデッサンから絵画へ  遠藤智之(塾生)

 第2回の塾は読売新聞科学部OBの北村行孝さんを招き、「歴史を記録する-科学ジャーナリストのもう一つの役割」をテーマに開いた。北村さんは新聞記者として日本航空123便御巣鷹山墜落事故を担当。関係者への取材を重ね、5年後には経緯を1冊の本『日航機事故の謎は解けたか』にまとめた。事故から30年経った今年、事故の資料と関係者のインタビューをまとめた書籍を出版した。改めて出版するに至った想いを聞いた。

 新聞社を退社後、北村さんは事故の関係者を訪ねた。当時、事故原因の究明を担った事故調査委員会の委員などだ。関係者も高齢になり、事故資料を多く抱えているが、その扱いに悩んでいた。「消えてしまうかもしれないものを残したい」との想いから、北村さんは出版を決意したという。当時、調査委員会の関係者は調査の経緯を外部に話せない。事故調査の独立性を確保して、正直な証言をしてもらうためだ。今回の本では、当時書けなかった名前や実名インタビューを掲載できた。30年という時間の経過がそれを可能にしたという。

 取材テーマは決められており、眼前のニュースを追うことで精一杯のはずだ。だが、「時事刻々の変化を追う以外にも勝負どころはある」「インターネットがある今、メディアは確実性を重視すべき」と北村さんは語る。情報が氾濫する現代、日々の出来事を伝える以上の役割がメディアに求められていると感じる。長期的な視点であるテーマを掘り下げ、少し後になってからでも、仔細を伝えることが必要なのではないか。今回のように書籍も一つの方法だ。加えて、新聞であれば解説記事の重要性と需要が増すだろうと思う。

 記者は「歴史をデッサンする」仕事であると聞いたことがある。今回の塾では、デッサンから一枚の完成した絵画を描くまでを学ぶことができた。私は来春から新聞記者となるが、これから取材を進める中で、自分なりの問題意識を形成して、一つのテーマについて長期的な視点で追いたいと思う。

30年後の記事に救い  山田理恵(塾生)

 発生から30年経つ事故について改めて記事を書く意義は何か。520人の犠牲者を出した日航機の墜落事故を取材した元読売新聞記者、北村行孝さんが11月4日、そんなテーマについて講演した。お話を聴いて、救われた気がした。同じ記者として、事故を書き捨ててこなかったかの思いを重ねた。

 北村さんは今年、『日航機事故の謎は解けたか 御巣鷹山墜落事故の全貌』を出版した。きっかけは2010年、退社のあいさつで遺族や事故の調査関係者に会いに行ったことだった。

 彼らの中には資料を整理して残している人や「教訓を残したい」と漏らす人もいた。一方、世間には隕石やミサイルで爆破されたといったうわさもいまだに残っていた。「航空機史上最悪の事故をもう一度きちんとまとめたい」という思いが募ったという。

 北村さんは残していた段ボール2箱分の取材メモや資料を手に、改めて関係者を回った。事故からの長い歳月は、予想以上に取材を後押しした。警察や調査担当者は現役を引退し、当時よりずっと取材に協力的だったという。

 新聞社に勤め、交通事故や殺人事件、大災害を取材することもあった。まだ悲しみにくれる犠牲者の遺族に会いに行き、つらい経験を語ってもらい、記事にした。私は転勤すれば、また新たな取材に追われる。一方、遺族にとって悲しみはずっと続く。自分が遺族の思いを「消費」しているような気がして罪悪感が募っていた。

 事故から30年後に改めて記事を書くことについて、北村さんは「遺族は長い歳月が過ぎると、(事故を起こした当事者への)処罰より教訓を残したいと思うようになる」と語った。事故当初の遺族の思いを報じるのも大切だが、歳月とともに変化する遺族の思いに改めて向き合うことも、ジャーナリストの役割だと感じた。

  
第2回の塾のもよう(撮影:都丸亜希子)


北村講師の共著書『日航機の謎は解けたか』